「M.Zuiko 40-150mm F2.8 Pro」タグアーカイブ

200914 官能すべし滅びの美学

だったら終焉も堪能したら?と思うのです。

”何故それを持つのか?”

その哲学に基づけば、自分の買い物なんて筋書き通りのそれであり、そのプロセスの悩みなど贅沢な作業に過ぎない、と、ザキは思うのです。

要するに、モノが欲しいと思うには、必ず論理的あるいは情緒的な条件設定が発生し、それに基づき買い物をするのだから、「どれにしようかな~」なんて悩んでいるプロセスなぞ「無意味な作業」であり、なおかつ買い物が楽しいと思う人はその無意味な作業と思えるもので快感を得ている、と思う。

ザキのカメラ選びなんて、
 ・ レンズは必要に応じて替えたい
 ・ ここぞって時にミラーのバタバタが大嫌い
 ・ 起動性能第一でセンサーの大きさは程々でいい
 ・ 重さは気にしないが大きさは気にする
 ・ パナソニックが嫌いでソニーが好き
 ・ 撮りたいものはある程度全部撮りたい
という御大層な論理に基づくものである。
なので、MFTオリンパスかソニーαに落ち着くわけである。

然るに。

カミさんがワイに対して「カメラ更新していいよ♡」などと甘言をのたもうても特に必要性は感じていないので「今は、いいや」としか答えない。

ミラーのあのバタバタ感がないととか手触りやホールド感が大事とか塊魂とかペンタにこだわりがとか所有する官能とか、日常のメディアで目にすると「カメラを持つためにカメラを買うのか?」と自分に問うてしまう。人がそう思えば、気にしぃのザキは悩むのだ。

でも結局、絵筆の代わりにカメラを持つ自分には、撮りたいもののためにカメラを買うのであって。

残念ながらオリンパスがカメラを手放してしまったけど、オリンパスのために買っていたわけでもなく、オリンパスのカメラがたまたま条件に合致しただけであったので、残念な気はするけど、悲観してシステム全部手放したり、急遽マウント替えなどを検討したりする理由はないのである。

まぁ、それでも終わってしまうのであれば、カメラが壊れて使えなくなるその瞬間すら楽しんでしまってもいいのではないだろうか?

だらだら言ったけど要するに、オリンパスのカメラを使うのは合理的な理由であり手元のシステムがほぼ完成しているから、オリンパスがカメラ事業を手放しても、ザキは悲観したりじたばたせずに、手持ちのマシンが壊れるまで楽しんで使いますよっと、そういう話。