
つい1年前までは毎日顔を合わせていた光景が、今ではそうではない。その光景がつい最近バッサリなくなってしまったわけでもないのに、それはなぜか?
それはその場所が今や日常的に通らない場所になってしまったから。いつも顔を突き合わせていた貴方とは、今やほとんど顔を合わせない。いま私はそこを通らないのだから。
たまに通ると、もはやそこは「非日常」になった、”過去の日常の風景”となってしまったのだ。
つい1年前までは毎日顔を合わせていた光景が、今ではそうではない。その光景がつい最近バッサリなくなってしまったわけでもないのに、それはなぜか?
それはその場所が今や日常的に通らない場所になってしまったから。いつも顔を突き合わせていた貴方とは、今やほとんど顔を合わせない。いま私はそこを通らないのだから。
たまに通ると、もはやそこは「非日常」になった、”過去の日常の風景”となってしまったのだ。
子供はかき氷が好き。
あんな氷にカラフルで甘い汁掛けたものの何がいいのか?
でも、汁吸いすぎて甘さがなくなったら、もはやかき氷を食べる楽しみは苦痛な作業でしかなくなる。
そしてこいつ↑はかき氷が苦手になった。
ザキは宇治金時・みぞれ金時以外認めない。妥協してブルーハワイ。
この猫様はここ↓に行けば会えます。
焼き栗が美味いんです。
去年の今頃何をしていたかシリーズ。
”大しておいしくもない伸びたそうめんをおいしく食べていた”
麺がビロビロぶよぶよで明らかに茹ですぎ感があったとしても。
到底考えられないコスパの悪さゆえにぼったくりだと思っていても。
それを”おいしく”いただいていた。その心は?
そうめんはエンタメと清涼感を足せば、料理としての美味さはさほど重要ではない季節の食べ物である、ということ。
柔麺(そうめんを温かい出汁につけて頂くアレ)の完成度を高めて美味しくしたとしても、家庭のグラス鉢に氷水を用意して高級な素麺をほどいて冷たくいただいたとしても、このエンタメと清涼感を足すという地獄のチートには簡単には勝てないのである。
美食家には承服しかねる美食?はここにあると思います。
人間、雰囲気や季節感や楽しさって大事です。
”何故それを持つのか?”
その哲学に基づけば、自分の買い物なんて筋書き通りのそれであり、そのプロセスの悩みなど贅沢な作業に過ぎない、と、ザキは思うのです。
要するに、モノが欲しいと思うには、必ず論理的あるいは情緒的な条件設定が発生し、それに基づき買い物をするのだから、「どれにしようかな~」なんて悩んでいるプロセスなぞ「無意味な作業」であり、なおかつ買い物が楽しいと思う人はその無意味な作業と思えるもので快感を得ている、と思う。
ザキのカメラ選びなんて、
・ レンズは必要に応じて替えたい
・ ここぞって時にミラーのバタバタが大嫌い
・ 起動性能第一でセンサーの大きさは程々でいい
・ 重さは気にしないが大きさは気にする
・ パナソニックが嫌いでソニーが好き
・ 撮りたいものはある程度全部撮りたい
という御大層な論理に基づくものである。
なので、MFTオリンパスかソニーαに落ち着くわけである。
然るに。
カミさんがワイに対して「カメラ更新していいよ♡」などと甘言をのたもうても特に必要性は感じていないので「今は、いいや」としか答えない。
ミラーのあのバタバタ感がないととか手触りやホールド感が大事とか塊魂とかペンタにこだわりがとか所有する官能とか、日常のメディアで目にすると「カメラを持つためにカメラを買うのか?」と自分に問うてしまう。人がそう思えば、気にしぃのザキは悩むのだ。
でも結局、絵筆の代わりにカメラを持つ自分には、撮りたいもののためにカメラを買うのであって。
残念ながらオリンパスがカメラを手放してしまったけど、オリンパスのために買っていたわけでもなく、オリンパスのカメラがたまたま条件に合致しただけであったので、残念な気はするけど、悲観してシステム全部手放したり、急遽マウント替えなどを検討したりする理由はないのである。
まぁ、それでも終わってしまうのであれば、カメラが壊れて使えなくなるその瞬間すら楽しんでしまってもいいのではないだろうか?
だらだら言ったけど要するに、オリンパスのカメラを使うのは合理的な理由であり手元のシステムがほぼ完成しているから、オリンパスがカメラ事業を手放しても、ザキは悲観したりじたばたせずに、手持ちのマシンが壊れるまで楽しんで使いますよっと、そういう話。
よーく考えたら、最近街灯があんまり緑に色づいて写らない
そんな奴らが増えてるんですよね。
そのうちナトリウムランプのオレンジや
水銀灯のグリーンも滅びてしまうんですかね。
東ソーや出光のプラント照明はLEDですよ兄貴。
ト☆〇マはボンビーなので健在ですが何か?
だがそれが美しい・・・と思うよ?
それは誰もが欲しがるあこがれの証。
あのバッヂに、石英の塊に。五画錐に。
白と黒で彩られた塊に憧れたあの日々。
富の証に憧れた日々を過ごしたものは、
筒の色、鏡の上下する音、その塊の肌触りに
意味を見出しその素晴らしさを語らった。
半世紀の時が流れたその証は元はと言えば
光の織り成す姿をありのままに汲み取る
それが生まれたときに与えられた使命。
かつてその使命を課せられた薄葉に代わり
電気仕掛けの金板を代わりに据えられた。
それでも、あの時憧れや官能が本質だった日々が
これからもずっと続くとみんな思っていた。
富と憧れの証に情熱を注ぐ者たちのための、
そのすべてであり最高の玩具だったそれは
いつの間にか簡単に誰しもの手に渡った。
その中で証に求められた使命は何時しか、
心の赴くまま感じた姿を現し、その美しさを
皆と分かち示すことを楽しむ絵筆になってしまった。
かつて与えられた、真の姿を写すことではなく
いつの間にか求められた官能というわけでもなく
それにすがる者たちは、
この時が神々の最後の戦いといわんばかりに、
その証の本来の使命が、憧れた日々に求めたものが、
永遠に皆の憧れであることを、続くことを叫び求めた。
叫び抗えども、その声は誰に届くだろうか?
その絶叫の果てに倒れたものの屍を
生き残されたものが糧として喰らう。
生き残った者の前に、再び陽は昇るのだろうか?
永遠に続くと信じていたその間に、
いつの間にか、みんな変わってしまった。
一日一撮を復活させようと思いまして。
E-M1Mk3を手にしながら、ろくすっぽ撮影に行けないこの世の中を呪いつつ、ひたすら過去の撮影(ALT)で埋め尽くすという。
まぁ、ずいぶん時間が経ってしまいましたが、オリンパスがカメラ事業を切り離してJIPに事業譲渡しちゃうぜみたいなニュースが6月24日にございました。6月23日生まれのザキとしてはとんだ誕生日サプライズみたいなもんでしたね。
当たり前ですが、ヘビーオリンパスユーザーのザキにとっても極めて衝撃的なニュースでした。が、一方で衝撃的とは言いながら、前振りみたいなことは何度もあったわけですし、それに何よりずーっと前から赤字を垂れ流し放題みたいな感じだったわけですから、この結果は当然のことよねと、わかってたかのような感じがするワイもそこにいるわけなのでございます。
続きを読む さよなら、オリンパスのカメラ皆さんごきげんよう。
というか、見ている人がいるのかいないのか。
とりあえず、最後に投降したのが2019年の11月ぐらいでしょうか。
半年以上放置していました。
何をしていたかといえば、
・ カミさんと分担変更による順応
(夕食の準備などをザキが担当)
・ 罪(積み)プラモデルの掃討
(でも全く進まなかった)
・ その他仕事とプライベートが(略
まぁ、忙しかったってことですね、一応。
Facebookも地味に更新していたので、何にもって
程ではないのですが、少なくともカメラで気合い入れて
自分の作品作りをしたり機材を検討したりとか、
そういう感じではなかった半年以上でした。